阪大を去るにあたって: 社会学の危機と希望 | Theoretical Sociology(情報元のブックマーク数)

日本の社会学の現状。

最後に日本の社会学に対する危惧を一つ述べておきます。日本の社会学の特徴は、アカデミズムの軽視だと思います。すなわち、学会報告や学会誌を軽視しているということです。学会発表もせず、学会誌に論文を投稿もせず、それでも社会学者づらして本を出版したり、さまざまなメディアで発言することができるのが、日本社会学の実情です。このようなことが起きるのは、学会報告や学会誌が、新人の登竜門として位置づけられており、その評価が低いからだと思われます。エライ先生は本しか書きません。エライので査読を受ける必要もありません。こっそり紀要などに考えを公開することはありますが、人から評価されるのは恐ろしいので、学会誌には絶対投稿しません。出版社も本が売れさえすればいいので、研究の水準や主張の真偽は気にしません。エライ先生はシンポ等でのスピーカーを依頼されれば断りませんが、わざわざ学会発表なんて、バカバカしくてできません。大学院生たちもこのような先生を見て育ちますから、アカデミズムを軽視し、本に好き勝手なことを書くことを理想とするようになります。研究そのものから降りてしまい、研究成果をほとんど出さない人も多数あらわれます。
 このような状況下では、専門家どうしの真剣な議論など望むべくもありません。分業という美名のもとに相互不干渉の縄張りが多数形成されています。国際的な競争力もつきません。日本の有名社会学者で海外でも名の知られている研究者が一体何人いるでしょうか。外国語で出版したり、国際会議で報告している研究者は、全社会学者の10%にも満たないのではないでしょうか。

阪大を去るにあたって: 社会学の危機と希望 | Theoretical Sociology

研究はコミュニケーションです。専門を同じくする社会学者を説得できなければ、十分な水準の研究とは言えません。「結論は出ない」とか「『真理』は存在しない」とか「自分が納得できればいい」といった逃げ口上は通用しません。結論がなく、『真理』が存在しないとしても、論文のクォリティは評価できますし、「自分が納得できればいい」だけならば、そもそもその人の研究は何の役にも立たないわけですから、そんな人に研究費や給与を税金や授業料からねん出すべきではありません。院生ならば構いませんが、評価してくれる人がいなければ研究者として就職できません。
 「アカデミズムという形式に縛られず、自由に議論したい」という人もいるでしょうが、それならば、学者はやめてしまえばよろしい。東浩紀のように評論家になるなり、ジャーナリストや小説家やアーティストになればいいのです。社会学者という肩書で語る以上、アカデミズムの権威のうえに乗ることになります(その点、東浩紀はいさぎよいというか、好感度が非常に高いです)。つまり「厳密に論証しろ」という要求には、「自由な議論を抑圧するな」と反体制ぶって見せるくせに、対外的には社会学者として語るという欺瞞は見ていて不愉快極まりありません。

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