安田登 (能楽師[2010/3/7放送]):ラジオ版 学問ノススメ Special Editionの論語の解説がすっきりしすぎて素晴らしい件(情報元のブックマーク数)

「學而時習之、不亦説乎」=「学んで時にこれを習う亦(また)説(よろこ)ばしからずや」は、「勉強して折において復習すると、快楽を感じる」と高校で習うが、この解説が秀逸。是非Podcastを聞いてもらいたい。

先生から、厳しく手取り足とり教えて教わりながら、まねて学ぶ。而=(髭や巫女の髪の毛)で時間をかけて身についていく。時=師匠から、流れている時の一瞬を捕まえて、ここだ!と言われる。習=その時に、何も考えずに自由に動いて羽ばたく、悦=魂が抜け出る状態の喜び。

教えを受けたり書物を読んだりして学んだことを、折にふれて繰り返し学習することによって身につけてゆくのはなんと楽しいことではないか。

http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E5%AD%A6%E3%81%B6&dtype=0&stype=1&dname=0ss&ref=1&index=118534200010

不惑:40歳で不惑じゃない。孔子は無理なことを言わない。惑の字は講師の時代に無い。おそらく、音的に似ている「不或」だろうという想定。矛と口と棒がある、線を引いて(土をつけると域になる)区切るという感覚、四十にして区切らず(線引きをしない)。40歳になると自分がこんな人間とか決めつけてしまう。もっと区切らずになんでも挑戦しなさいと言う意味じゃないか。

四十の時に、狭い見方に捕らわれることなく、心の迷いがなくなりました。

【みんなの知識 ちょっと便利帳】年齢の名称・異称・別名 - 弱冠・不惑など

安田さんの解説:「切磋琢磨」は競い合ってよいものを作るってのではなく、石や骨をその人にあった磨き方を探して自分なりの磨き方で磨けばよい。ってのを切磋琢磨。

著書『中国の古代文字から―身体感覚で「論語」を読みなおす。』を踏まえつつ、安田さんの論語の解釈について、そして、能の身体感覚の奥儀についてお伺いします。

ラジオ版 学問ノススメ Special Edition

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